林 郁夫
慶應義塾大学医学部卒業。専門 心臓血管外科
1978年 31 アメリカデトロイトにあるサイナイ病院外科研究所に留学
1981年に帰国後、栃木県済生会宇都宮病院、茨城県那珂郡東海村の国立療養所晴嵐荘病院、慶應義塾大学病院などに勤務。慶應大学病院では心臓外科医として石原裕次郎の手術チームの一員でもあった。 臨床医として癌などの死病の患者と接するうちに、現代医学や科学が乗り越えられない「死」に対して深く考えるようになる
1977年、桐山靖雄の本に感化され、阿含宗の正式な信徒となり、…約10年在籍したが、自身の修行の成果が出ないと悩んでいた
手術は出来ても人の心は救えないと悩んでいた。同時に予防医学の重要さを認識するようになり、心臓病などはストレスと深くかかわっていると認識し、患者にヨーガ、瞑想法、呼吸法などを紹介したりしていた
1987年、書店で麻原彰晃の著書と出会う。信者のヨーガやツァンダリー、インドの伝統医学、オウム食などを用いた修行メニューによる具体的な成就記事などに強く衝撃を受け、しだいに傾倒していく。自ら運転する自動車で交通事故の加害者になり、その自責の念に駆られたことも入信の原因とされる 1989年2月、オウム真理教に入信。病院にオウムの療法を持ち込み、患者に塩水や湯、糸を飲ませたり、ジャンプさせたりするなどしたためトラブルにもなった 医学的な根拠は追わなかった?
1990年1月に晴嵐荘病院を退職し、同年5月、妻、子供達と共に一家4人で出家信者(サマナ)になった。この際には目黒に所有していたマンションを売った額を含めた全財産の8000万円と車2台を布施として寄付し、地位も名誉もすべてなげうっての出家であった
4月23日の村井秀夫刺殺事件後には動揺を見せた。5月6日に別の事件での取り調べを終えたあと、突然「私がサリンを撒きました」と述べ、地下鉄サリン事件の全面自供を始めた。取調べ担当の警部補たちは、林が地下鉄サリン事件に関与していたことを全く予想しておらず、「先生、嘘だろう」「誰かをかばっているの」と問い直した。この供述により警察は同月16日教団施設への強制捜査を実施。隠し部屋に潜んでいた麻原が逮捕され、教団解体へとつながる。
また公判中、被害者の駅員が自分が撒いたサリンを片付けたために死亡したことについて「私は本来人を助ける医者でありながら、そういう人達に比べて」と号泣するなど、林の涙ながらの裁判は傍聴人の心を大きく揺さぶり、「慟哭の裁判」とも言われた
その後、オウム真理教の各種事件に対しての捜査に協力的な点や、公判の中で、遺族・被害者側が「改悛の情がある」として、必ずしも死刑を求めなかったこと、サリン散布の実行犯であることを捜査側が充分に関知していない段階で自ら告白した点、罪の呵責に喘いでいる点などを考慮し、検察は林の全面自供により地下鉄サリン事件の全容が明らかになったことが自首に相当するとの判断を下した。このため検察は死刑ではなく無期懲役を求刑したが、無差別大量殺人事件の実行犯に対し検察側が自発的に求刑を軽減するのは極めて異例のことである。